スリムな特殊清掃
アルジヤンソン行政代理官は、一七〇一年当時の状況を次のように語っている。
「たび重なる禁止令にもかかわらず、くず屋のなかには真夜中に家をでて、くず拾いを口実に街を徘徊している連中がいる。
この連中、窓の庇や格子越しに物を盗む手口はお手のもので、ときには一階の部屋や台所をあけるのが得意な者もいて、ひょいっと爪竿で引っかけて、下着や家庭用品を失敬している」。
彼はこの所業に対して、夜明け前に街をうろついているくず屋には男女を問わず全員三〇〇リーヴルの罰金を課し、体罰を与えることにした。
警視総監ベリーヌは、一八二八年に新たな条例を発布した。
夜二時まで街を徘徊することは許可するが、「ほうきを使ってごみを拾い、作業をしている姿がわかるように、必ずランプを常備すること」といった内容である。
さらにこの条例施行後は、役所の認可を得たくず屋は、全員、楕円形の銅のメダルを首にぶら下げるよう義務づけられた。
そこには、氏名、あだ名(通称)、身体的特徴、それに番号が刻まれていた。
このメダルを取得するには、さまざまな証明書の提出が求められ、前科のない者にだけ許可がおりた。
一八二八年から一八七三年、つまりこの条例の施行開始から廃止までの聞に、警視庁では合計一万一〇〇〇個のメダルを発行することになる。
しかし、メダルを発行して、くず屋を規制しようとする試みはうまくゆかなかった。
親から子へ、あるいは友人のあだ名をもらい受けるなどして、次々と一つのメダルが使いまわされていったからだ。
一八四〇年、ヴイルメツトルが『消えゆくパリ』のなかで、当時のくず屋仲間のあだ名を載せている。
それによると、ジヤン・フェルタンニヤン」〔「ダルタニヤン回想録」『ゴ一銃士」の登場人物の名〕、ジュリアン・デユボール・「ワイン死に」、フィリピヌ・ジエルベール・「警察殺し」、アグラエ・キュトルー・「足温器」といった名があげられている。
やがてあだ名が次々と譲られてゆくうちに、たとえば、腕白盛りの少年が「死神の手をのがれた男」という名を受けついだり、やせ型の男が「脂肪の塊」というあだ名だったりと、実際の身の上や身体的特徴とは似ても似つかないものになっていった。
しかし、くず屋同士の共謀と相互扶助の前に、警察はなすすべもなかった。
一八七二年八月、警視総監レオン・ルノーは、くず屋の人数を制限する方針を打ちだした。
二カ月の期間を設けて全員に新しいメダルを発行したのである。
これによって、恒常的に三万人から四万人いる(ふだん建設や閤芸の仕事をしている季節労働者は含まない)と推定されていたくず屋のうち、実際に申請をしたのは六〇〇〇人足らずであった。
申請義務を怠った者たちは、後になって、メダル獲得に向けてむなしい努力を傾けることになる。
ただ、そのときも不正行為が横行し、警察はしかたなく目をつぶるしかなかった。
しかし、くず屋が安堵したのも束の間、一八八三年一一月二四日、プベル知事が署名した条例を機に、くず屋の暮らしは一変し、厳しい規制が課されることとなった。
プベル知事がくず屋を飢えさせるごみバケツの設置を義務づけたプベル知事の条例に対して、くず屋の組合は激しく抵抗した。
カトリック教徒の労働者団体と改革派グループが繰りかえし集会を聞いた。
一カ月にわたって論戦が戦わされた。
「文明からの除け者」と自称してはばからない反対者たちは、議会に請願し、自分たちの境遇に心を痛める市民および新聞の支持を取りつけて、事情を説明する討論会を国会で実施するところまでこぎつけた。
通称「宝石」と呼ばれていたくず屋フランソワは、条例施行後、くず屋の収入が半減したと次のように証言し、国会にセンセーションを巻きおこした。
「小生が無作為に選んだ三〇〇世帯の収入を調べたところ、(中略)条例以前は一日平均二・二五フランの収入があったのに、いまでは一・〇五フランにまで落ちこんでいる」。
ロシユフーコ!日ピサッチア公はくず屋の立場を熱っぽく支持し、新聞で「くず公爵」と呼ばれた。
こうした闘いのすえ、最終的にくず屋は以下の二点の譲歩を勝ちとった。
一つは、ごみ箱を外に出す時間と収集車が収集に向かう聞の時間差を一五分から一時間に延ばし、くず屋の作業時間を考慮すること、いま一つは、くず屋が選別をする際、ごみは布の上にひろげ、選別後に残ったものはごみバケツに戻すという条件であった。
しかし、パリのくず屋へのこの譲歩に対して、後に異議申したてが相次いだ。
あるパリ市の議員は、「地面に置かれたごみバケツの中身は一部しかバケツに戻されていない。
そのため、通りはごみで汚れ、野良犬に散らかされている」と衛生面を理由に、くず屋への譲歩削除を求めた。
このプベル知事による新しい条例が導入されたせいで、くず屋の作業条件は一変した。
深夜に作業する者は完全にいなくなってしまった。
ごみの俳個役は朝三時か四時に起床して、仕事が割りあてられた地区に向かう。
一五キロから二〇キロほどの道のりを、馬が牽引するごみ収集車の数分先を小走りで歩き、三〇から三五キログラムの獲物を集めた。
住居と仕事場の距離が離れていると、集めた品でいっぱいになった龍を空にするのに、何度も往復しなくてはならない。
そこでその手間をおしんで、くず屋は次第に柳で編んだ背負い龍をやめ、手押し車や馬車を使って廃品を集めて一度の往復ですむように作業を進めることにした。
徘徊役の仕事はこれまでの場所役の仕事と同様、数千戸もの家庭ごみから掘りだし物を見つける作業となった。
集合住宅の管理人のなかには、早朝にごみバケツを外にだすという重労働をくず屋に委託した者もいたが、そういった場合にはくず屋は独占して掘りだし物を探しだすことができた。
また、新手のくず屋も現れた。
泥を排除する業者から収集車への乗車を許された「収集車のくず屋」である。
彼らは、収集車に乗せてもらう代わりに、ごみの積み降ろし作業を手伝った。
清掃業者としては、こうしたくず屋を雇うことで正規の作業員を削減することができた。
数年後、「収集車のくず屋」たちはごみの獲物あさりとは別に作業手当ての支給を求め、一九一三年にはおよそ五〇〇人いた「収集車のくず屋」に対して、日当一・三五フランが支払われている。
しかし、徐々に、組合内での階層対立が表面化し、街を相変わらず放浪しているくず屋と、安定した労働者となった者とが敵対するようになっていった。
進歩からとり残された人びと一八七〇年まで続くくず屋の長期にわたる好景気は、その後一転して危機に陥った。
一八世紀、フランスではおよそ五〇万人がごみ拾いやごみの再利用・リサイクルで生計を立てていたが、工業化が進むとともにその数は滅っていった。
木や藁を原料にパルプを生産する方法が広く自由化されたのは一八六五年からである。
それを機に、製紙工業がめざましい発展をとげた。
一八八一年七月二九日には出版の自由を認める法律が制定されて、新聞市場が一気に増大したことも製紙業の発展に拍車をかけた。
その反動で、それまで独占的なパルプ原料となっていた「洗浄され漂白されたほろ布」は、もはや競争に耐えられなくなった。
一九〇〇年以降、ぼろ布は高級紙専用の原料となり、一般のパルプの原料としては従来の一〇分の一ほどしか使われなくなった。
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